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A.R.P.L.A. = Association of Religion, Philosophy, Literature and Art

破局の一手

※本作は、2026年5月4日の文学フリマ東京42に出品する「愛にまつわる短編集」に収録されています。

安田智也

本書はさる古書店で手に入れた「偽書」を題材にしている。店主が言うには長野県の旧家の蔵にあったという。その家の当主は「終活」やら「家じまい」とやらで例の書物を売却した。

その名も「戸茂国軍記(こものくにぐんき)

当然ながら日本(ひのもと)六十余州(ろくじゅうよしゅう)にそんな地名はない。ただ登場する要人の諱には「輝」という字が現れることから、おそらく足利(あしかが)(よし)(てる)在世中が「時代設定」となっていると思われる。五畿七道で言えば「東山道」に属するという。地名の類似点と売主の主張から察するに「信濃国」――現在の長野県が舞台になっている、と思われる。

筆者は武田信玄による信濃侵攻やそれに対する信濃国の動向など、文書にも遺せないような話が載っているのかと思って買ってみた。全くの勇み足であった。ウィキペディア情報でしかないが信濃国の動向とは全く無縁の、昔風に言えば「御伽草子」であった。

しかし読んでみるとなかなか面白い。院政期以来の家格にこだわってなかなか足利将軍家に頭を下げない頑固で老獪な国衆たちの領袖である老人、老いた父に従順だがのちに独裁者になっていく息子、ライバルの家の次男と恋に落ち翻弄される、その娘等々。動乱の時代にあらん限りの力を尽くし生き抜いた、あるいは生き抜こうとした人々が織りなす御伽草子。こんな面白い物語を筆者は読まずにはいられなかった。もちろんそのために「くずし字辞典」やら「古語辞典」を味方に奮闘したのは言うまでもない。

そして筆者はこう思った。「版権が切れているから、二次創作してしまえ」と。そういうわけで、「戸茂国軍記」の中に出てくるある男の話を題材に本書を書いた。主君のために捨て石になる男の話である。

重臣らは主君・弓削(ゆげ)次郎(じろう)三郎(さぶろう)を扇の要にして半円状の車座になっていた。重臣の一人・山門彦右衛門(やまとひこえもん)は車座の外側から同輩の肩越しに覗き込んでいる。彼らの視線の先には地図がある。親の跡を継いだばかりの近習・誉田弥八郎(こんだやはちろう)は、扇を指し棒にしながら「石川」と書かれた場所を指した。

「此度、御屋形様より石川(いしかわ)大介(おおすけ)殿を討伐するようにとのお下知がござりました」

次郎三郎、弥八郎、彦右衛門以外は顔を見合わせていた。皆は口々に「とうとう来たか」「これは大事だ」と呟いていた。彦右衛門の頭の中には、別のことが浮かんでいた。視線は弥八郎にあった。彼の既に重臣になったような重々しい口調が、癪に障ったからだ。

「大介殿は一揆の寄合で留守にしておるはず。そこを我が方で一気に」

ある重臣が「相や待たれい」と弥八郎を止めた。

「石川大介殿は北の豪族じゃ。いくら一揆の寄合に行かれるとはいえ守りは堅かろう」

「すでに側近・鈴木源大夫殿により調略が済んでおりまする」

「調略? その鈴木某とは誰じゃ」

「鈴木殿は御屋形様が京より召し抱えた足軽の頭目にござって、その鈴木殿が一揆の内より崩すとの事にござりまする」

「斯様な国に縁もゆかりもない者の調略などあてになるのかの?」

彦右衛門は、ため息交じりに尋ねた。

「今般、足軽雑兵を使わぬ者はおりません。一揆の中にも足軽を利用しておる者も多うござりまする。調略と申しまするのは有り体に申さば、一揆の国衆が召し抱える足軽共を暴れさせ、一揆に与する国衆を討ち取る算段でござりまする」

「卑怯千万じゃ」

彦右衛門は怒鳴った。

「今でこそ『北の老いぼれ』と陰口を叩かれておるが、石川家といえば北戸茂随一の豪族で、源平の御合戦までは戸茂介として受領されていたお家柄で……」

「彦右衛門殿にお尋ねいたす。今の元号をご存じでおいでか?」

彦右衛門は黙った。周囲が失笑する。弥八郎は彦右衛門を侮るかのように話し続けた。

「公方様が都を捨て、鎌倉が分裂したご時世に、『源平の御合戦』とは笑止千万。我らが主君は弓削次郎三郎様、その主君は御屋形様たる久米右馬助輝吉(くめうまのすけてるよし)様おいて他にはござらん。石川家ではござり申さず」

彦右衛門は唇を噛みしめた。そして食い下がった。

「されど石川殿を討伐するとしても、鈴木殿とやらを信じて良いのか? 必ず勝てるのか?」

「少なくとも彦右衛門殿に任せるよりはましかと」

彦右衛門はキッと睨み付けた。

「両名とも控えい」

次郎三郎の声に、彦右衛門は我に返った。

「弥八郎、彦右衛門はお主が父の同輩ぞ。思い上がるでない」

次郎三郎は弥八郎の素襖の襟を掴むと、平手打ちを食らわせた。

「彦右衛門、これで良かろう」

彦右衛門は己が腰刀に手をかけていることに気がついて、さっと手を離した。

「面目次第もござりません」

彦右衛門は平伏した。

山門彦右衛門は次郎三郎の乳母の子であった。すなわち二人は乳兄弟である。そのため幼少の頃より近習として仕え、次郎三郎が当主になってからは宿老の待遇を得ていた。

若い頃は武芸に秀で、多くの武功を挙げていた。弓削家が南戸茂において頭角を現すようになったのもひとえに山門彦右衛門の忠義心の賜物といっても良い。しかし寄る年波には彦右衛門とて逆らえなかった。「弓削の猪」と近隣領主から怖れられた彦右衛門もこのところは負け戦を続け、郎党らも討ち死にや他家に寝返るなどして山門家の戦力減退に拍車をかけていた。

次郎三郎の温情もあってなんとか宿老の面目を保っている有様で、誉田弥八郎のような若輩者にさえ侮られる始末であった。

「彦右衛門殿には困ったものだ」

誉田弥八郎は近習の詰所で愚痴をこぼしていた。同僚で親戚筋の誉田三郎兵衛はいつも弥八郎の愚痴を聞くのが日課であった。

「まあ怒るなよ。俺たちの出番はもうすぐ来る」

「待ってられん。都で何が起きている。公方様が朽木谷に逃げ、細川の被官が天下人になるような時代じゃ。早うせんと先を越される」

「待て待て、この戸茂から天下を伺っているのか?」

三郎兵衛は弥八郎を笑った。

「戸茂国は山々に阻まれてはおるが、一国にまとまれば八十、いや百万もの石高は得られよう。北の石川、南の久米家が源平合戦以来ずっと争っている。さっさとどちらか一つにまとまれば、一気に西上じゃ」

弥八郎は一気に白湯を呷った。

「弥八郎、焦る気持ちも分からんでもないが、百年、二百年もまとまらんものをまとめるなど至難の業じゃ。一所懸命に生きるのが分相応の生き方とは思わんか?」

「一所懸命? 笑わせるな。あの山門の親爺でさえ、村同士の争いに助太刀したり、喧嘩をけしかけたりして、所領を増やしている。今は落ち目だが、俺もあれぐらいのことをしてみたいものよ」

「さんざん、侮っているくせに憧れておるではないか?」

「たわけ! だれがあの死に損ないに憧れるもんか」

弥八郎はそう言い放つと黙りこんでしまった。三郎兵衛は思った。言葉は心の底まで語ってはくれぬ、と。我ながら良い格言だと思った。三郎兵衛が口を開こうとしたとき、詰所の戸が開いた。

「申し上げます。鈴木源大夫殿お見えにござりまする」

弥八郎と三郎兵衛は顔を見合わせた。そんな予定など聞いてはいなかったからだ。

「わしらは何も聞いておらんが」

「火急の用との事で、今すぐのお取り次ぎをと」

弥八郎は「礼儀知らず」と呟きながら、執務中の次郎三郎に事情を話した。彼は快諾した。

「仕方あるまい。御屋形様の御使者じゃ。すぐに通せ。あと、粗略の無いようにな」

「承知つかまつりました」

自分の殿が、たかが他家の使者に、しかも足軽大将にこうも下手にでなくてはならないのかと思うと、弥八郎はとても悔しくなった。天下も三好(みよし)筑前(ちくぜん)もはるか遠くに行ってしまう。そう思うと、余計に弓削の猪の「老い」といつまでも宿老の座に居座る「性根」が恨めしく思えてならなかった。

宿老の詰所で一同は茶を飲んでいた。一座から大分離れたところで、独り彦右衛門は茶を飲んでいる。皆ひそひそと話しているせいで、彦右衛門の耳には入らなかった。また彦右衛門も耳には入れまいとしていた。

彦右衛門は皆の内緒話を耳に入れぬように別のことを考えることにした。癪には障るが、弥八郎の例の話であった。彦右衛門にはどうも旨すぎる話としか思えなかった。たしかに首尾良く事は運びそうではある。

だが懸念もあった。弓削家とて今でこそ久米家を「御屋形様」として仰いでいるが、それまでは村同士の争いを支援する形で間接的には敵であった。しかし当代の右馬助輝吉が朽木谷に銭や米などを贈った功により一字拝領を許されたため、弓削家にとりこれ以上争うことは分が悪かった。万が一「御敵」になれば、弓削家の存亡にも関わることになる。ゆえにやむなく臣下の礼を取らざるを得なかった。

とはいえ石川家を討つというのも腰が引けた。皆は口々に「北の老いぼれ」と言っているが、その老いぼれによって北の半国はまとまっているし、また一揆の盟主として久米家の不当な段銭要求も撥ねつけている。まったくもって「北の老いぼれ」ほど頼もしい主君はいない。いくら一揆の寄合があるとはいえ、そう易々と討ち取れるものか疑わしい。

第一、石川館といっても山城並に備えは厳重である。一日二日で落とせるとはとうてい思えなかった。老いたとはいえ彦右衛門の頭はまだしっかりしている。いくつかの思考実験の末、一つの考えに至った。「久米家の目的は石川領侵攻ではない」ということだった。

「評定を再開する」

その旨を受けて、弥八郎は宿老の詰所に向かった。予想通り、彦右衛門は爪弾きになっていた。

「申し上げます。評定を再開するとの仰せにござりまする」

弥八郎は彦右衛門にも聞こえるように大きな声で言った。それぐらいの器の広さはある。ある宿老に肩を叩かれ、「あんまり怒らせるなよ」とからかわれた。宿老が顎で彦右衛門を指していたから、彦右衛門の事だろうとは思う。その他の宿老たちも一緒になって笑っていた。少し不快な気持ちになった。

遠くで独り彦右衛門がまだ座っている。呼びに行くべきか悩んだ。三郎兵衛が「彦右衛門殿」と呼びかけた。先を越されたと思った。彦右衛門は「すまん、すまん」といいながら、評定の間へ急ぎ足で向かっていった。まるで何事も無かったかのようであった。

評定の間では、とっくに話が始まっていた。先陣を誰がやるかで言い合いになってはいたが、弥八郎にはどことなく緊張感のない口ぶりからまるで勝ち戦が決まっているようでならない。

「ご無礼つかまつりました」

「弥八郎、いっそそちが先陣を担ってはどうか?」

宿老の一人が弥八郎に話を振った。

「とんでもない次第でござります」

「遠慮するな。此度は御屋形様がお膳立てをしてくださっておる。何も心配することはあるまい」

先陣は武士として名誉ある役目である。弥八郎はとっさに彦右衛門の方を向いた。

「そうじゃ、彦右衛門殿がおったではないか? いかがでござる。さすがに此度は負け戦など致すまい」

宿老たちは大笑いした。弥八郎は申し訳なく思った。自分が彦右衛門を「いじった」ばっかりに、ここまで彼が罵られる羽目になるとは思わなかったのだ。

彦右衛門は先ほどとは打って変わって、静かに末席に着座すると主君・次郎三郎に振り向いて平伏した。

「殿、此度の留守居それがしにお任せいただきとうござる」

一座がどよめいた。先ほどから黙って家臣たちの話を聞いていた次郎三郎も、この言葉には驚いているらしく「いかがしたのじゃ?」と尋ねた。

「この山門彦右衛門、度々の不始末の上に、温情を持ちまして宿老の一座を賜っておりました。されど此度参陣すれば、おそらくまた兵を失うものと思案いたしました。この上は、城の留守居を務めお戻りになるまで守り抜く所存にござりまする」

「彦右衛門、此度は勝ち戦も同然じゃ。たかが二三の負け戦で気落ちすることもあるまい。儂の側に居れ」

「お願いにござりまする。留守居も大事にござりまする」

「彦右衛門殿が留守居を務めるというのならそれでも良いではござりませぬか」

宿老の一人が言った。皆も「そうじゃ、そうじゃ」と同調した。弥八郎は見かねて「おそれながら」と口を開いた。

「城の留守居には彦右衛門殿の一族郎党だけでは足りぬと心得まする。百姓どもを集めたとしても……」

「控えよ、弥八郎。そちはこの場をなんと心得る。殿と宿老たちの軍議の場ぞ。殿の近習とて差し出口は無用じゃ」

彦右衛門の怒鳴り声で、一同は静まった。弥八郎は余計に心配になっていた。彦右衛門は何も知らないのかもしれぬ。

「ならば、彦右衛門に尋ねる。兵はいかほど必要か?」

「一族のみで十分にござる。殿のお戻りまで守り切って見せましょうほどに」

次郎三郎の顔に笑みはなかった。弥八郎は宿老たちを信用したことを後悔した。

その夜、次郎三郎は彦右衛門を召して酒の相伴を命じた。弥八郎は外で控えさせている。

「生まれたときからそなたが側に居た。わしが元服のみぎり、そなたの父がわしの烏帽子親であった。そして父上が、そなたの烏帽子親であった」

「懐かしゅうござりまするな」

彦右衛門は杯を口につけた。

「あれから何年になろう?」

「もう忘れましてござりまする。それほど長い年月を経ました」

「わしは此度の出陣から帰城した後、倅に跡目を譲ろうと思う。そなたはどうじゃ。ともに隠居せぬか?」

「それも良うござりまする。毎日、酒を飲み交わして、さっさと往生しとうござりまする」

「のう、彦右衛門」

「はっ」

「留守居の件じゃが、別の者でも良いのではないか?」

「なりませぬ」

彦右衛門は強い口調で返した。

「此度、戦は久米家による謀。石川館に我が方が攻めている間に、この城を奪わんとする企てにござりまする」

「わかっておってなにゆえ、そなたが務める。他に適任の者もあろう」

「それがしならば、守れまする。他の者では御屋形様に怖じ気づいて、城を明け渡しましょう。しかしこの彦右衛門は頑固にござる。それがしの一存で、城を守りきって見せましょう。これで殿は御屋形様の敵にならずに済みまする」

「わしの身代わりに謀反人を務めるというのか? 大言壮語もいい加減にせい」

「鈴木某が殿になんと言おうと、石川家に矢の一本も放ってはなりません。どうか今までの負け戦の責めを負わせてくだされ」

次郎三郎は答えなかった。その代わり、彼は杯を渡した。彦右衛門が杯を受け取る。次郎三郎はそこに酒をついだ。彦右衛門がそれを一気に飲み干し、懐紙で丁寧に包んだ。

鞍上にいる主君に彦右衛門は頭を下げた。次郎三郎は彼に頷いてみせると、出陣を命じた。先陣は弥八郎であった。彦右衛門は家中の世代交代を痛感した。もちろん薄々と感じてはいた。譜代の家臣でかつ有能な人間は弥八郎をはじめとして数えるほどしかいない。しかし先陣という名誉を見せつけられると、「この日が来たか」と溜息をつかざるを得ない。

彦右衛門は一族の者たちを集めて城を守らせているが、どうも締まりが無い。いつもは前線で暴れまわっていたのが打って変わって留守居である。仕事に優先順位はあっても優劣はない。彼は身分にかかわらず戦支度が済んでいないものを見つけては叱りつけた。

締まりが無いのもそのはずである。肝心の嫡男・新太郎(しんたろう)の戦支度が済んでいないのだ。

「新太郎、何のつもりじゃ」

「何のつもりも、留守居の務めをしておりまする」

「なにゆえ、具足を身に着けぬ?」

「父上、此度は御屋形様がお膳立てくださった勝ち戦にござりまする。気を抜かぬも大事にござりまするが、気合も緩急をつけずば、皆疲弊してしまいまする」

「たわけ、留守中に敵が攻めてくれば何とする」

新太郎は溜息をついた。

「此度の敵は北の老いぼれにござりましょう。我が方は三方、味方の国衆に囲まれておりまする。これを通ることができるのは、御屋形様の軍勢のほかおりませぬ」

「その御屋形様が城を囲めば何とする。我らは他の国衆とは違い、新参じゃ」

「ご懸念とあらば、お言いつけ通りにいたしまする」

新太郎は仕方がないと言わんばかりに、側仕えの者に具足の用意を命じた。一代で身代を減らした父親に尊敬の念などないのだろう。彦右衛門は「わかれば良い」と言い放って、その場を離れた。親子の溝など今は大事ではない。

彦右衛門は物見櫓へ向かった。国の絵地図を思い浮かべ、部下の挨拶も無視し、急ぎ足で向かっていった。弥八郎の一族郎党の石川館着到が昼頃とすれば、反転させても間に合わない頃に敵の来襲が予想された。昼。昼には備えを厳にしなければならない。

物見櫓では若い者らが談笑していた。彦右衛門は聞き耳を立てた。

「それにしても困ったものだ。本家の親爺には」

「そうじゃ」

「せっかくの勝ち戦を捨てるとは」

「やはり、あれではないか?」

「あれとは」

「この期に及んで死ぬのが惜しくなったんじゃ」

「そうじゃそうじゃ」

「年寄はこれだから困る。若い者に手柄を立てさせてくれんとな」

「さっさと若に跡目を譲ってはくれないものかの」

ここまで悪しざまに言われるようになったか、と彦右衛門は自嘲した。しかし言われるままなのは癪に障るので、櫓に躍り出た。若い者たちは慌ててひれ伏した。

「どうじゃ、様子は」

「未だ変わりなく」

「そうじゃの、変わらないのが一番じゃ。留守居も跡目も」

ハハハと高笑いして彼はそのまま遠くを見続けた。彼は昼までそこに居座ることに決めた。若い者たちへの意趣返しである。

城と石川館のちょうど間にある所で弥八郎は、馬廻りの者たちから行軍停止を伝達された。始まったか、と思うと弥八郎の全身の血が騒いだ。

弥八郎の返事を受け付けた馬廻りの者は、後方へと馬を引き返した。その時、男の叫び声が聞こえてきた。兵たちが騒ぎ始めたので、弥八郎は「うろたえるな」と一喝した。すると、弥八郎の方へ手負いの武者が刀を振りかざしながら向かってきた。鈴木源太夫が遣わした軍目付の一人である。弥八郎は彼に向かうと、槍隊に向かってとどめを刺すよう命じた。前から横から後ろから串刺しになった手負いの武者はそのまま息絶えた。

弥八郎は困惑する兵たちに向かって言った。

「御屋形様の兵に出くわせば敵と思え」

この時、弥八郎はあの城を守っている老人の姿が思い浮かんだ。山っ気のある怒りっぽい、あの「弓削の猪」の姿であった。

「白地に米」が、久米家の旗印であった。それを掲げた一隊が瞬く間に弓削の城を取り囲んだ。櫓の上では彦右衛門は満足そうにうなずき、若い者らは慌てふためいていた。

「御屋形様の軍勢じゃ。なにゆえじゃ」

「情けなや。図体の割におつむは幼いと見ゆる」

「親爺殿、これは一体」

彦右衛門が答えようとした時、下より伝令がやってきた。

「ご注進。御屋形様の御使者・鈴木源太夫殿、城の明け渡しを要請。いかが……」

「断れ」

「しかし、鈴木殿は」

「そちはどちらの家来か? 弓削か? 久米か?」

「弓削の家来にござる」

「よし。陣触れじゃ。一族総出で打ち払え」

「ははっ」

伝令は急ぎはしごを降りていった。伝令の動きは素早かった。新太郎が慌てて櫓を登ってきた。

「父上、耄碌なさってか! 御屋形様の軍勢を迎撃するとは、謀反も同然」

「新太郎、我らは弓削の家来じゃ。城の留守居を全うするのが筋ではないか?」

新太郎は答えられなかったのか、黙って彦右衛門を睨みつけた。

「良いか! 儂は山門の惣領じゃ。惣領として命ず。迎撃せよ。」

その時、門前にて一人の武者が「開門」と叫んだ。彦右衛門はおもむろに弓矢を取ると、その武者を射抜いた。

「ようよう我は、山門彦右衛門なり。いかに御定なれども、それがしその旨、主より承っており申さず。それでもこの城手に入れんとするならば一族総出で、守り切るのみ。返答いかに!」

先方は無数の矢を放つことで、それに応えた。すなわち「開戦」である。

「良いか、皆の衆。今我らは城の内にある。城落とすは攻城三倍の原理と言うて、至難の業じゃ。門が破られぬ限り、迎え撃つのみで良い。敵来たらば叩け、深追い無用じゃ」

うろたえる若い者たちには目の前の老人の声が頼りであった。新太郎は跡取りとしての威厳を保とうとしたのか、「持ち場につけ」と号令した。

彦右衛門は弓矢で、塀を登ろうとするものを射落としていった。

一族の者たちは、半ば自棄糞に矢を放ち、礫を投げて押し寄せる敵を撃退していった。「来たらば叩く」を地道に繰り返せば、次第に敵も退くだろう。

彦右衛門はそう思っていた。

彦右衛門の策が当たったのか、戦は面白いように味方の優勢になっていった。敵が討たれれば討たれるほど我が方の士気は昂る一方で、敵方は相反するように押し寄せる力が弱くなっていった。

あと少し。あと少し耐えれば次郎三郎は帰ってくるかもしれない。自分が囮となって味方の兵が久米の兵を背後から突いてくれれば、勝ち戦に終わる。

その刹那、雷のごとき轟音が鳴り響いた。彦右衛門らが呆気にとられていると、伝令が走ってきた。

「ご注進、門が破られました」

「何ッ」

粉塵が舞っている。目を凝らして城門を見てみると、大人ほどの大きさの閂が真っ二つにえぐられるように割れていた。幼少の時分からあったあの閂が、真っ二つになったのである。彦右衛門は我に返ると、一族の者たちに檄を飛ばした。早く正気を取り戻させねばならない。

原因はわからない。南蛮の妖術やもしれぬ。しかし答えを求めている余裕はなかった。味方が混乱している間、久米の兵は態勢を整えていた。

敵勢が一挙に雪崩込む。

「怯むなッ、あらん限りの力を尽くし、城を守り抜けッ。援護せぃ、援護」

彦右衛門は次々に矢を敵勢の騎馬武者から足軽関わらず、浴びせ続けた。刀を振りかざして、一族の者を切ろうとする武者の首に自分の矢が当たったときは、まだまだ自分は現役で活躍できると思った。その後も面白いように矢を放ち続けた。

「父上ッ」

「何じゃ、そちも矢を放て」

「矢が尽きましてござる」

「……」

「父上、この新太郎めが持ち場を守りましょうほどに、どうか本丸にお隠れ遊ばしませ」

新太郎の目は侮蔑なのか哀れみなのか、恨みなのか。それさえよくわからない目をしていた。自分はいつも死を覚悟していた。此度も死を覚悟している。しかし、こうして死ぬのだということが現実になるとは思っていなかった。

「何を言う。礫を打て。怯んだところ突き殺せば良いのじゃ。何をしておるッ」

「騎馬武者が一挙に雪崩込んでおりまする。我らに残されたのは誉れある最期のみ。どうか、心安らかにご生害遊ばしませ」

「新太郎、父に言うことはそれだけか?」

「ござりませぬ。猪突猛進のあまり一族を死地に送り、あまつさえ滅亡させるようなお方にかける言葉もござりませぬ」

彦右衛門は、力なく階段を降りていった。だれもが彦右衛門に声をかけない。見ようともしない。彦右衛門は一人本丸へと向かった。

自分は、敵陣に突っ込んで刺し違えるつもりだった。それが自分の死に様だった。しかし現実は、ただ采配をしくじり一族を滅亡させ自分は腹を切る。それが自分の死に様であった。

「勝鬨はまだかッ」

鈴木源太夫は部下を怒鳴った。

「山門彦右衛門の首が獲れておりませぬ」

「皺首なんぞどうでもよい。さっさと城を落として、弓削の領地を占拠するのだ」

源太夫は苛立ち故か、鞭で机を叩いた。

「御注進ッ、後方より軍勢襲来」

「味方か」

「さにあらず、弓削の旗に候」

源太夫は顔を真っ青にして、「退却じゃ」と呟いた。

「は?」

「退却じゃッ、挟まれた」

部下たちは、退却、退却と怒鳴りあった。

久米右馬助輝吉は謀反人・鈴木源太夫討伐の褒美として、弓削家に城の新築のための人足、資材、銭を贈った。名目はどうあれ、「賠償金」である。しかし弓削次郎三郎もこれ以上追及しなかった。久米家に恩を売ることによる利益を優先させた。

今宵は落成の宴である。一人、弥八郎は大広間の天井を眺めた、大広間の天井板や、近習の詰所、その他の武士の詰所には、山門一族の血に染まった床板が使われていた。一部分が血の色が濃くなっていた。そこであの老いた猪は死んだのだと、弥八郎は思った。

畳の上で次郎三郎は上機嫌に、久米家の使者を労っていた。殿は何を思っているのだろうか、弥八郎には主君の考えが読めなかった。落成式をするのも良いが、主君としてなすべきことを次郎三郎はまだ行っていない。

夜半。酒と吐瀉物の臭いで充満している大広間と大の大人たちが半裸で倒れている。弥八郎は、酔いつぶれた宿老衆に軽蔑の目を向けながら障子を開き、換気をした。次郎三郎は威儀を正しているものの舟をこいでいる。次郎三郎はつぶやくように言った。

「ここであやつは死んだ」

「御意」

弥八郎は答えた。

しばしの沈黙が続いた。弥八郎は例の話題を出す好機だと思った。

「彦右衛門殿のことで思い出しましたが、山門家の所領はいかが致しましょう。親類縁者を探し出して、速やかに相続させた方が良いと存じます」

「無用じゃ」

「なんと?」

「無用じゃと言うておる。一族滅亡と相成ったからには、山門家の所領は召し上げる」

「お待ちください。山門家は御家の為に死んだのでございます。せめて誰か良い者に継がせるべきと存じまする」

「それなら部屋住みの倅たちに宛がおう。不足はあるまい」

「……」

弥八郎は黙りこんだ。次郎三郎は無表情だった。

「彦右衛門殿は殿の朋輩ではござりませなんだか?」

「そちにだけは言うておく。およそ人の主という者は、友など持てぬ」

(了)

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