作者:隅田翔鷗
本作は、著者・隅田翔鷗氏が過去に個人サイトにて公開していた短編作品をもとに、文藝阿不羅掲載にあたり再編集を行ったものです。
本作の著作権は著者本人に帰属し、文藝阿不羅は掲載および編集に関する権利の許諾を受けています。
掲載にあたっては、構成調整および表現の整理を目的として、生成AIを用いたリライト・編集作業を行っています。
ーー本文ーー
丸山亮太の逃げ場所は、いつも図書館だった。
本を読むことで、現実とは別の世界に身を置くことができた。知識が知識と結びつき、頭の中に別の風景が立ち上がる。読書とは、彼にとって頭の中の開墾だった。
本好きに悪い人はいない、というのが亮太の持論だった。特段の根拠があるわけではない。ただ、同じ趣味を持つ者に好意を抱くのは人間の性だろう、と彼は考えていた。
校内で言葉を交わす相手は、司書の先生だけだった。だがその先生も、もうこの図書館にはいない。ある夏の日を境に長い休みを取り、そのまま別の部署へ異動になったと聞いた。市内だろう、という曖昧な噂だけが残っていた。
晩秋の放課後。
校舎二階東側の突き当たり、観音開きの扉を開くと、そこには幾万もの世界が並んでいた。いつものメンバーがいる。もっとも、友達ではない。入学以来、互いに一度も言葉を交わしたことはない。ただ、変わらない日常がそこにあることを確認するだけだった。
亮太はカウンターを見た。
貸出上限の十冊を通学鞄に入れていたため、早く返却したかったが、司書の姿はない。返却棚に置けば図書当番が処理してくれるが、亮太はそれを使わなかった。万が一紛失すれば、弁償になる。
仕方なく、重い鞄を持ったまま定席のソファに腰を下ろした。
しばらく読書をしてから、ふと思い立ち、鞄を置いてカウンターへ向かう。新刊のリクエスト用紙を取るためだ。だがペンを持っていない。落とし物入れを開くと、筆記用具やハンカチ、ピアス、金属製の栞、ピンク色のUSBメモリなどが雑多に放り込まれていた。半ばゴミ箱のようだが、捨てることは許されていない。
亮太はその中からペンを一本借りた。
定席に戻り、再び本を開いたときだった。
視界の端に、人影が映った。
女子生徒だった。隣のクラスの生徒だと記憶している。三年間通ってきた図書館で、見かけたことのない顔だった。
受験勉強だろうか、と考えながら視線を向けると、彼女は本棚の下に手を伸ばし、何かを探しているようだった。落とし物入れのことを教えてやろうかとも思ったが、面識もない。亮太は何も言わなかった。
ふと、彼女と目が合った。
亮太は視線を逸らしたが、彼女の方から近づいてくる。顔を見た瞬間、「垢抜けるとはこのことか」と、言葉の意味を実感した。
「ちょっと、聞いていい? 」
「何か用? 」
「友達とゲームをしてて、その賞品を図書館に隠したらしいの。何か知らないかなと思って」
彼女は「角谷彩花」と名乗った。やはり隣のクラスの生徒だった。
迷惑な話だ、と亮太は思った。それでも、女性に対して無下にできないのが男というものだ。
「なぜ、俺に」
「いつも図書館にいるって聞いてるから。司書の先生と付き合ってるって」
思わず息を吐いた。そんな噂が立っているとは知らなかった。
彩花は慌てて言い添えた。
「ごめん、怒らせるつもりじゃなくて」
「別にいいよ。慣れてる」
沈黙が落ちた。亮太は話を進めることにした。
「その友達、図書館にはよく来るのか? 」
「どうして? 」
「隠すなら、知らない場所より、よく知ってる場所を選ぶ」
「その子、図書委員なの」
「名前は? 」
彩花は一瞬、言い淀んだ。亮太は訳ありだと感じた。
「木下桃子」
その名を、亮太も知っていた。図書委員で、夏に図書館の窓から身を投げた生徒だ。
「その暗号は、桃子が残したものなの」
「ゲーム、というわけではなさそうだね? 」
彩花の声がわずかに震えた。
「証拠を集めて、警察に出すって言ってた。でも……」
「その暗号を解くと、何が手に入る? 」
「いじめの証拠」
亮太は驚いた。行動力に、ではない。
その証拠が、まだ残っているという事実にだ。
「それをどうする? 」
「警察に。先に見つけないと、他の人も狙ってる」
高校三年の冬。
今は、人生が決まる時期だ。加害者だと知られれば、進学も将来も閉ざされる。
「わかった。この暗号、解いてみよう」
彩花はスマホを差し出した。
そこには、フリーメールに送られてきた文面が表示されていた。
―――
こころ 夏目漱石
153-1/2-12-14-2,153-1/2-13-3,153-2/2-1-8,153-2/2-2-26,153-2/2-3-1,153-2/2-4-12,153-2/2-5-15,153-2/2-5-19
153-2/2-5-19,153-2/2-5-20,153-2/2-7-3,153-2/2-7-25,153-2/2-8-26,153-2/2-15-13
―――
亮太は、ひと目で理解した。
「書籍暗号だ」
「なに、それ」
亮太は説明した。送信者と受信者が同じ本を鍵にし、指定された位置の文字を拾う暗号だ。
説明の途中、亮太は前方の自習席に視線を向けた。
三人の女子生徒が、それぞれ別の席からこちらを窺っている。監視、と言っていい視線だった。
彩花は大きめの声で話題を変えた。
「でもおかしくない? 数字が多すぎる」
「段組みだ。1/2、2/2は上下段」
さらに、日本語特有の問題がある、と亮太は続けた。
「最後の数字は、漢字の読みの何文字目かを示してる」
「そんな……」
「探すべき本は、条件が絞れる」
亮太は言った。
「夏目漱石の『こころ』で、二段組みの本。単行本か新書だ」
彩花は深く頭を下げた。
「ありがとう。ここまでで十分」
亮太は頷いた。
人に感謝されたのは、久しぶりだった。
だが、心の奥に引っかかるものがあった。
なぜページは153から始まるのか。
なぜ鍵となる本を、彩花は持っていないのか。
不安を抱えたまま、亮太は図書館に残った。
(後編へ続く)
